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(3)年表も自分史と同様に自由に編集できます。あの時世間では何が起こっていたのか思い出しながら、あるいはネットや図書館で調べながら年表を作成し、ご自身の歩みと比べるのも楽しいものです。

(4)私たちHK3が提供する自分史サービスは、ブログと同様な個人サイトを提供するものです。日々の出来事を綴るブログと同様に、自分自身の過去を振り返り、時間をかけて自分史を作成することも新しい余暇の過ごし方ではないでしょうか。

(5)HK3では本サービスを希望されるお客様のイニシャルをサイト名に含めるサブドメインを提供します。(例、X-XXX.hk3.jp・・・X-XXXはお名前のイニシャル。なおすでに希望されるイニシャルが使用済みの場合にはご容赦願います。第2候補あるいは第3候補までお知らせください。)

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何か無性に書き残したいことがある。
御歳58歳、昭和28年3月気仙沼生まれ。
一関、横浜、イラン、東京、インドネシア、スリランカ、ヨルダン、ブラジル、そして家族を持った仙台と書き綴りたい。
気仙沼生まれ

生まれたのは気仙沼市の入沢にある「森産婦人科医院」だと母が言っている。昭和28(1953)年3月13日にこの世に生を受けた。

スキャン0005 実家は今のエースポートの真ん前にある「唐桑屋」という魚屋だった。今は「亜紀」という喫茶店がある。帰省すると昔を懐かしみ、この喫茶店に入ることがある。

席に座ると、ここは昔、飯台を出して、飯を食べていたところだと想像する。 妙なものである。子供時代はここで暮らしていたのだ。ここで兄弟喧嘩したことや朝早く起きて新聞配達に出かけたこと、「すずしん」の鈴木先生が剣道の防具をつけて店の前を通ったことなどを思い出す。先生は子供達に警察の脇にある柔剣道会館で剣道を教えていた。兄が剣道を始めた関係で、小学校5年から剣道を習った。

実は剣道は嫌いだった。暑くて臭くて痛くて、碌なことがない。練習をさぼろうとしても、鈴木先生が家の前を通るものだからさぼりようがない。最もお陰で病気がちの私が健康になったが。

小学校時代は、マルサン食堂の智文、丸拓の博文、木田屋の隆平、甘太郎を売っていた修、近所の友達の家へ行って遊んだ。天体観測と称して、毎週土曜日に焼き肉屋の村山君が持っていた天体望遠鏡を片手に、大矢、若山、村山のメンバー(中沢君や佐藤君もいたような気がする)で化粧坂の裏山に上った。天体観測に飽きると地上の家を覘き、暗闇で鬼ごっこをした。当時の化粧坂の上から見る天体は本当にきれいだった。星を見ながら、自分が科学者になったような気分になった。

マルサン食堂へ遊びに行くと奥さんが時々私にとんかつの半切れを御馳走してくれる。刺身は飽きるほど食ったが、とんかつは魚屋の息子である私には高根の花だった。このとんかつ食いたさに、マルサン食堂へ何度も通った。香ばしいとんかつの衣の匂いは、どうしようもないほど子供時代の私をマルサン食堂へ引き付けた。

丸拓や木田屋に遊びに行くと、家の中が恐ろしく広くてかくれんぼには最高のところだった。他人の家の中で勝手にかくれんぼをするのだから、家人にはさぞ迷惑なことだったろう。

私の家、唐桑屋の内部も珍しい構造をしていた。一階は、店の商品が並ぶ土間、ご飯を食べる板の間、仏壇が置いてある畳の間、二階は表二階、裏二階、そして中間の明かり取りの中二階がある。

明かり取りの部屋は、一階の板の間に明かりをとるための部屋だった。唐桑屋は四軒長屋の端を占め、前後に長いウナギの寝床のような形をしていた。中間の部屋には窓がないので、中二階の明かり取りの部屋に逆円錐形の筒状の構造物が置かれ、天井から明かりをとるのだ。

そんなに効果はないと思うが、この中二階の部屋は何となく秘密の部屋に思え、我が家を訪れた友達にも好評だった。父も一時期、カメラに凝って、自分の暗室をこの中二階に拵えていた。

そう言えば、子供の頃にスーパーとして開店した「主婦の店」が南町にまだ残っている。(注、残念なことに平成21年に閉店した。)小遣い片手に主婦の店を訪れ、肉団子を買って食べるのが何よりの楽しみだった。小学校二年生ぐらいの時だったと思うが、肉団子を詰めてもらいレジで清算する前に、店の品を見ながら、何気なしにこの肉団子を食べてしまったことがある。

立派な万引きである。本人は全く気付かなかったのだが、店の外に出ると上級生の男子が「お前、金を払っていないぞ!」と注意してくれた。しかし、商品はすでに食べてしまったので支払い対象の商品がない。仕方なく、別の店で買ったガムを持って、再び主婦の店を訪れ、ガムの清算で補ってしまった。当時の私は、自分の犯した罪にものすごくうろたえてしまった。

私が高専に入学してから、実家は魚屋を止め、旅館業に転身した。内の脇に「浜見旅館」という小さな旅館を今でも母と兄夫婦が経営している。

私が幼稚園のころまでは、エースポートの所に魚市場があった。新しい市場へ移転するまで、しばらく木製の桟橋が残っていた。この木製の桟橋が古く、あちこちに穴があいていて、この桟橋で遊んでいた幼年期の私は二度ほど落ちてしまった。

桟橋の下は暗い海で今でもその恐怖感は残っている。幸い近くで見ていた大人がいて、二度とも助けてもらった。その後、この暗い海の記憶がトラウマとなって、水が怖くなり、大人になるまで全く泳げなかった。ようやく泳げるようになったのは24歳の時で、私がイランのテヘランに駐在していたときだった。職場の先輩の岩見さんにホテルのプールで泳ぎを教えてもらった。

唐桑屋の二階の表の部屋からは内湾がよく見える。暇なときは、日永この内湾を見ていたものだ。この表の部屋は、二人の祖母の部屋だった。祖母が二人同居することは、今ではまず見られないことだと思うが、私には小さい頃から同じ家に二人のおばあちゃんがいた。二人は日蓮宗の熱心な信者で、朝晩のお勤めと称するお祈りは欠かせない。

私には二人の兄がおり、私を含む三人でお経を諳んじるようになった。毎日同じお経を聞かされれば、自然に覚えるものだ。

魚屋をしている実家では、朝早くから夕方遅くまで商売で人の出入りが多かった。魚市場での早朝の仕入れは、番頭の春雄さんが担当していた。私の父は店主にも関わらず、毎日朝8時ぐらいに寝床がある二階の裏の部屋から店に降りてくる。毎日の深酒で、二日酔いのまま、表でゲーゲー吐いていた。「たけし君ハーイ」に出てくる塗装業のおやじにそっくりだ。

早朝の魚屋は忙しい。唐桑屋の所在地は、私の子供のころは"釜の前"といった。ここに塩を造る釜があった名残だそうだが、この周辺には旧魚市場があった関係で多くの仲買の魚屋が集まっていた。私の実家がある唐桑屋だけが少し離れているだけで、南町はそれこと魚屋一色だった。

仲買の魚屋には小売の仕入れに周辺の町から多くの行商のおじさん、おばさんが集まり、よい魚を仕入れてゆく。

このおじさん、おばさんが午前7時ぐらいになると魚屋の板の間でお弁当を広げて朝食を食べてゆく。子供のころの朝食は、いつも知らない人が周りに一杯いた。

この朝食には景気づけの日本酒が欠かせないものだった。コップでお茶代わりに日本酒を飲む。仲買の魚屋はどこでもこのように魚を買ってくれる行商のお得意さんに日本酒を出していたのだろうか。

気仙沼の港祭りの思い出も多い。祭りのクライマックスの花火大会では、内湾で水中花火をあげる。小舟から海に直接花火を投げ込むので、花火が扇型に広がる。唐桑屋の表二階からよく見えたので、一関からこの時期になると大勢の見物客が泊まり込みで訪れる。

しかし、エースポートが唐桑屋の前に立ってから、この水中花火は見えなくなってしまった。

唐桑屋には多くの人が泊まりにきた。また、番頭さんや女中さんなど大勢の人が働いていた。

(注、写真は実家の御墓がある法玄寺より気仙沼湾を写したもの)

チリ地震津波

魚屋である実家の唐桑屋の古い写真が残っている。

店側から内部に向かって写したものだ。奥に白黒テレビが見える。この写真は多分、チリ地震津波の前後に撮影されたものと思う。

左側から父、春雄さん(番頭さん)、トミおばあさん、母、長兄、ツヤおばあさん、一人置いて、次兄、私の順に並んでいる。兄たちの間に座っているおばさんが誰なのかよく分からない。

私が小学校の2年生の時、チリ地震津波に襲われた。津波は昭和35年5月24日に気仙沼を襲った。その頃の気仙沼は大潮になると内湾沿いの道路はよく冠水したので、午前7時ぐらいの段階ではいつものこととあまり気にしていなかった。

むしろ、このように道路が冠水すると学校に行けなくなるので、学校嫌いの私はしめたと思った。今で言う"ラッキー"である。

午前7時半ぐらいから道路上の海水がじわじわ上昇してきた。ついには(写真上で)みんなが座っている板の間まで海水が上がってきた。ここから父が慌てた。ただの大潮でないことに気づいたのだ。テレビが置いてある畳の部屋は板の間より一段高くなっており、テレビ、畳の順に二階へ運んだ。しかし、一向に海水の上昇が収まる気配がなく、どんどん浸水してくる。

ついには、屋根に逃げることとなった。祖母二人を含む避難劇が始まるのだが、屋根に逃げるには1か所、危険な場所があった。唐桑屋の裏には、ニチレイの冷凍庫があって、裏二階の物干し場のすぐ側に、冷凍庫の高圧受電設備が置かれていた。この受電設備のそばを通らなければ、屋根に上がることができない。何とか危険を避け、全員、屋根の上に逃げることができた。子供達よりも高齢の祖母二人を屋根の上に逃がすのが大変だった。

この時代、唐桑屋の隣は「まるや」さんという魚問屋さんが店を構えていたが、裏に大きな倉を持っていた。このまるやさんの奥さんが、この倉に逃げ込んだ。しかし、倉は津波の浸水を防ぐことはできない。この奥さんが大声で倉から助けを呼んでいたことを記憶している。確か春雄さんがこの奥さんを助けたものと思う。

唐桑屋の屋根に上がると、気仙沼の内湾がよく見える。屋根に逃げた頃には津波の第一波が収まり、第二波のため内湾の海水が全部引けてゆくところだった。今まで見たこともない内湾の海底が見えるのである。

やがて津波の第二波が遠くから押し寄せてくるのが見えた。なんとも恐ろしい風景である。大波が全部を飲み込んでしまうように見えた。しかし、幸い第二波は、第一波ほどのエネルギーはなく道路が冠水するほどの高さで、唐桑屋の内部まで押し寄せることはなかった。

父は津波の第二波が収まった後、第三波に備えて、近くの山に祖母と子供達を逃がすことにした。逃げるとすればお寺のある入沢の法玄寺方面なはずだと思うが、なぜか、武山米屋の裏の山へ逃げたと記憶している。ここには半鐘があった。津波の時この半鐘が鳴ったことは記憶していない。もっとも日本中、だれもチリから津波が押し寄せてくるとは考えもしなかったと思う。

津波はその後も何波か来たが、第一波ほどの規模ではなく、やがて収まった。生まれた初めて被災者の立場になった。学校はしばらくお休みになり、近所の人を含めて家具や食器の片付けに大忙しだった。私は被災者なので学校でハーモニカをもらった。被災者の子供にはハーモニカを配ったようだ。

津波の跡は唐桑屋に残っていた。一階と二階の中間に海水が上がった線が残っていた。親戚やお客様が来ると、その線を見せて津波の話題にしたものだ。

唐桑屋

スキャン0016一枚の古い写真。

祖母二人と兄二人が写っている。私がまだ赤ちゃんなので昭和28年ぐらいに、唐桑屋の店先で写した写真だ。

私たちの両親は一関の出身で、祖母トミの時代に一関から気仙沼へ移ってきた。祖父、栄吉は一関で大正14年に29歳の若さで死去した。今で言えば医療事故による死去だったようだ。祖母は男子二人、女子一人の子供三人を抱えてどのような事情か分からないが、一関から気仙沼へ移った。

私の母は一関の農家の出身で、戦後、縁があって気仙沼の父の元へ嫁いできた。父は戦地から帰還したばかりだと聞く。祖母は一関の豆腐屋が実家だったので、元々、商売には慣れていたかもしれないが、気風が荒い気仙沼ではじめに食堂を始めた。当時の気仙沼はやはり漁業の町で、漁師や市場関係者を相手に食堂を経営していた。この食堂は旧の気仙沼魚市場の真ん前に位置していたので、それなりに繁盛していたと思う。

祖母は気丈な人であるとともに、天性の商売感があり、やがて食堂から漁船の船主、魚屋へと転身する。ただし、戦時中のことは父が戦地に行っていたこともあり、あまり知られていない。女手一つで子供三人を育て、商売を続けることは並大抵のことではなかったと想像する。

スキャン0014左の写真は唐桑屋の店先で母と一緒の所を写したものだ。母は格好着姿で隣のおばちゃんは孫の手を引いている。この写真では「唐桑屋」の看板は半分しか写っていないが、今でのこの看板は魚市場前の本宅に掲げてある。

さて「唐桑屋」の屋号は、今は合併してしまったが隣町の唐桑町からつけたのは言うまでもない。しかし、祖母の生地は一関なので、親戚もいない唐桑町の名前をどのような事情で屋号として採用したのか、定かではない。

他町から気仙沼に流れてきた人々は屋号を付けるに当たって、自分の生地の名前を付ける傾向がある。佐賀屋、越後屋さんなどがその例だが、その論理に従えば、「一関屋」になりそうなものである。当時、同じ名前の屋号がすでに使われていたのでそれを避けたのであれば、分からなくもない。いずれにしても唐桑に何らかの縁があったので、「唐桑屋」にしたものと思う。

父母が結婚した当初は、漁船を経営していたこともあったようだが、共同経営者に取られてしまったとか、借金で地元のやくざのところに詫びを入れにいったとか、相当荒っぽいことがあったようだ。

父が戦地より帰国し、母と結婚し、「唐桑屋」は、祖母トミの時代から父永一の時代へ移る。唐桑屋は昭和45年ぐらいまで続き、途中、父から兄に引き継がれていった。兄は高校卒業後、秋田の大きな魚問屋に勤めた後、気仙沼に戻り、一人で魚屋を引き継いだ。しかし、もともと唐桑屋の敷地は大家である角星さんのものであり、唐桑屋を含む四軒長屋の住民は取り壊しに伴い転居することになった。

これで旧市場前の「唐桑屋」の歴史は終わるのだが、現在の魚市場前にある本宅に唐桑屋の看板を引き継ぎ、しばらくは唐桑屋が続く。しかし、魚屋が一軒ずつ軒先を構える時代はとうに過ぎ去ろうとしていた。小売仲買業が協同組合を作り、一か所で買い物や仕入れする時代がきていた。また、スーパーの力も増大し、消費者も魚屋で刺身を買うのではなく、スーパーで刺身を買うようになった。

そのうち父が始めた旅館業の方が忙しくなり、自然に「唐桑屋」の歴史は閉じられることとなった。しかし、「唐桑屋」には別に屋号として「かね太」(金尺に"太")があった。

この「かね太」は現在水産加工業を営む兄の「カネフト」に引き継がれた。

昭和30年代、40年代の高度成長期には、唐桑屋にもたくさんの働き手が泊まり込んでいた。私の記憶では番頭さん二人、女中さん一人を鮮明に覚えている。表二階には祖母二人と番頭さん二人、女中さん一人、下の畳の部屋には子供達が寝ていた。女中さんはやっちゃん(本名:安子)といって、私たち兄弟はとても慕っていた。素朴だが愛嬌があって働き者の娘だった。

番頭さんはこのほかにも何人かいたようだが、後で聞いた話では、その中の一人が女中さんの一人にほれ込んでしまって、どうしても結婚させてくれと女中さんに脅しをかけたそうだ。脅し文句は「結婚してくれなければ殺す」だそうだ。

女中さんが怖くなって母に相談したところ、最初はみんな反対だったが、ツヤおばあさんが、「この人は少年期に不幸があって、ロクに口のきき方を教えられなかった。根はやさしい子だから許してあげなさい。」と助言したことによって、めでたく結婚したそうだ。新一さんと奥さんは子宝にも恵まれて幸せに暮らした。

世の中も落ち着き、唐桑屋には番頭さんの春雄さんだけが残ったが、父が旅館業へ転身したときに、独立して魚屋を始めた。春雄さんには多くの思い出がある。どちらかと言うと無口の方だが、私が物心ついたころからすでに春雄さんは我家の一員だった。春雄さんの結婚式も唐桑屋の表二階で行われた。新居は市場前に建てた本宅だった。

春雄さんは酒癖が悪かったようで、ある日酔っ払って車を運転して、警察署の前に掲げた交通安全運動の看板を引き倒してしまった。青くなった春雄さんは、そのまま車で両親のいる実家まで逃げ帰ったそうだ。警察より父に苦情があって、看板を弁償して許してもらったそうだ。今であれば、とてもこんなことで許されることはないと思うが。

父も大変酒癖の悪い人だった。酔っ払って車を運転し警察につかまり、翌日の警察署への出頭を母に代理で行かせた。当時の気仙沼警察署の対応もおおらかなもので、窓口の警察官が母に「おとうさんは恥ずかしくて来られないの!」と言ったそうだ。結局、母が父の代わりに講習を受けて、勘弁してもらったそうだ。ちなみに母は運転免許を取ったことがない。

私は生れてから中学卒業までの多感な時代を「唐桑屋」とともに過ごした。日本は高度成長期で、子供も相当数おり、戦後の最も輝いていた時代だと思う。

幼稚園

スキャン0010 子供のころのもっとも古い記憶を私の頭の中から探ると、幼稚園前後に落ち着く。

幼稚園の前の記憶はとても断片的だ。幼いころ、親と一緒に逗子や大阪、京都、奈良方面へ旅行したこと、旅先の宿で夜中におこされて、当時貴重だったバナナをたらふく食べたこと、逗子海岸の近くにある暗いトンネルが怖かったこと、お寺の法玄寺で法事があると餅をたらふく食べたことなどである。

トンネルのことは、ひょっとすると夢で見たことを実際の記憶と混同しているのかもしれない。しかし、大きくなって逗子の海岸を訪れたとき、実際にいくつかのトンネルがあったので、これは実際の記憶なのだと確認できた。逗子、鎌倉は鎌倉武士の戦場だったので、戦乱で殺された武士の御霊がトンネルの中を今でもさ迷っているそうだ。幼かった私の記憶でも、何となく恐ろしいところだったという思いが強い。

小さい頃は夢想癖があって、小学校3年生ぐらいまで授業中にこの夢想をやらかしてしまった。夢想中は空想の世界、例えば戦闘機に乗って敵と対戦するシーンを黒板の字を見ながら楽しんでしまう。夢想中の私は地球防衛軍の隊長である。宇宙人との戦闘を指揮している。これでは成績が上がるはずがない。

母に言わせると、私は幼稚園を3回代わったそうだ。最初の幼稚園は、陣山にある陣山保育所だった。港を見渡せる丘の中腹の絶好の場所にある。しかし、この保育所にたどり着くまでは急な階段を登らなければならない。高齢の祖母は私の手を引いて苦労してこの階段を登った。

ツヤおばあさんに手を引かれてこの保育所までたどり着き、保育士の先生に引き渡される。恥ずかしがり屋の私は周りの子供達に馴染めず、すぐに自宅のある唐桑屋へ遁走する。ツヤおばあさんが唐桑屋へ戻る前に、私はすでに逃げ帰っていた。

母はたまらず、少林寺の和光幼稚園に代えたそうだ。しかし、私にはこの和光幼稚園の記憶がない。兄のことと間違えているのではないかと母に抗議するのだが、私だそうだ。結局はここも短かったようで、次に隣のカコちゃん(本命:和子)が通っているカトリック幼稚園へ行くことになった。

カコちゃんは私より一歳年下なので、一緒に通えば逃げることはないと母は思ったようだ。事実、私たち兄弟のマスコット的存在だったカコちゃんと一緒に通い出して、ようやく幼稚園も落ち着いた。吉田商会の娘さんのカコちゃんは、いつもきれいな服を着ていた。男兄弟三人の私たちは、きれいな服とは無縁だった。特に最年少の私の服は、常に兄たちのお古だった。小学校4年生の席替えの時、隣に座った赤木さんから、汚いから近寄らないで、と言われたのがショックだった。

確かにその頃の私は、ハンカチ、チリ紙などを持つはずもなく、鼻水が出ると学生服の袖で拭いていた。袖は鼻水のお陰でいつもテカテカしていた。ある時体操着の代わりに父のステテコを穿いて学校に行ったが、途中で兄に見つかってしまった。今でも兄にからかわれる。朝の短い時間の中で、どうしても自分の体操ズボンが見つからず、止む無くそこにあった父のステテコを穿いたものである。

学生ズボンにも嫌な思い出がある。中学三年生の時の卒業式の練習のとき、学級代表の私はズボンの尻に穴があいていることに気づいた。この穴のあいたズボンで演壇に上がる時、この穴が見つかるのではないかと恐れたが、案の定、見つかってしまった。学友から後でさんざんからかわれた。

私は二度とこんな恥ずかしい思いはしたくないと思い、母にせがみ、本番は確かなズボンを穿かせてもらった。今なら新品のズボンを要求できるのだろうが、当時は倹約が美徳だった。

私の祖母二人は熱心な法華経の信者である。このおばあさんたちが孫をカトリック幼稚園に通わせたことに驚く。確か毎週月曜日は教会の中で幼稚園児はアーメンをやったような気がする。

おおらかな時代だった。

気仙沼小学校

スキャン0003 気仙沼小学校へは、旧市場前の唐桑屋から紫さんまたは齋藤外科の脇を通って崖から登る。この齋藤外科の脇を通る道は危険だと言うので禁止されていたと思うが、遅刻しそうなときはこちらの道を通った。

冬になると紫さんの坂が凍りつく。小学生の私にはこの凍りついた坂が思うように上れない。砂利道を必死になって登るのだが、いつか一人だけ取り残されたことがある。教室には遅刻して入った。そのうち、坂の左側に階段と手すりが付くようになった。

しかし、この階段も相当に危険だった。特に下りの時は滑って階段の角にぶつけて何度か痛い目にあった。手すりにつかまっていても容易に滑って、体が回転してしまう。齋藤外科の裏の方は、このような設備がないのでまっしぐらに崖を登る。この崖の道は竹スキーで遊べた。紫さんの坂でも竹スキーをやったことがあるが、交通量が少なかったので「新商会通り」まで滑っても危険ではなかった。

それから文信堂さんには学校帰りに大変お世話になった。当時私は文信堂さんまたは白萩さんで漫画を立ち読みして帰るのが日課だった。文信堂の女店員さんに顔を覚えられ、また来たかという顔で追い払われる。しばらく様子を見て女店員さんがいなくなったころを見計らって、また読みだす。この繰り返しである。本を初めて買ってもらったのは、小学校の二年生の時だった。野口英世とリンカーンの伝記だったが、このときは文信堂で堂々と買った。

そのうち、貸本屋がはやり出し、警察署近くの長屋の中に貸本屋があって一冊一日10円で貸していた。これを兄弟で小遣いを出し合って、一度に数冊借りては兄弟で回し読みしていた。

自転車に乗れるようになったのは、小学校の三年生の時だった。子供用の自転車ではなく、大人の自転車で自転車を斜めにしてこぐ、三角乗りをしていた。そのうち、勇気を出してサドルに尻を乗せることができるようになったが、ペダルが最下位の時は足が届かなかった。片方ずつでペダルをこいだ。この乗り方では降りるのに苦労する。ペダルに足が安定して着いていない状態で降りることになるので、それこそ必死に飛び降りた。時々失敗して横棒に思い切り股をぶつけた。

小学校の4年ぐらいまでは一人で通学していたが、5年ぐらいから若山修君と通学するようになった。私が甘太郎を売っている若山君の家へ迎えに行くか、彼が魚屋の唐桑屋まで迎えに来るかのどちらかだ。彼とは小学校、中学校を通じて同級になったことはないが、なぜかウマがあった。

小学校一年生の時の担任は、大森和江先生だった。確か、気仙沼地区では初めて女性の校長先生になった人だと思う。当時の私はやんちゃだったようだ。教室で一人だけ浮いていたのかもしれない。教室で先生が質問して解る人は手をあげてと言われ、私が当てられると大声で「忘れました」と応えていた。二年生に進級するときに転任してしまったが、私が六年生の時に再び気仙沼小学校に着任された。母の話では私のことをよく覚えていたそうだ。

小学校二年生の時の担任は、女性の清水その先生だった。当時の私には年配のおばあちゃん先生に見えた。小学校一年生、二年生はクラス替えがなく、生年月日順にクラス編成をしていたので3月生まれの私は八組だった。兄たちの学年は10クラス以上あったのだが、私たちの時では8クラスになった。ようやく団塊の世代が終わりを告げようとしていた。その先生は本当にやさしい先生だった。怒られたという記憶がない。

小学校三年生の時の担任は、男性の小野寺亀喜先生だった。三年生になると校舎が第二校舎へ移動する。今の市民会館がある位置に校舎があった。公立病院もすぐ下のNTT気仙沼支店の位置にあった。

この三年生の時に大きな事件があった。私と同級生の二人で放課後の教室の掃除をしていた時、ふざけてドッジボールのボールで教室の窓ガラスを割ってしまった。これは二人の責任なのだが、親には言えずに、しばらくは教室の割れた窓に代用の紙を張っていた。冬の時期だったので、窓際の同級生は寒さに震えるようになり、やむを得ず同級生と相談して親に話して窓ガラスを弁償することにした。

その時の経過がよく分からないのだが、窓の桟沿いに寸法を測り、魚町の金物屋でガラスを切ってもらい、ようやく教室に窓ガラスが入った思いがある。亀井先生には大分叱られた。

気仙沼小学校の本校舎へ戻って、小学校四年生の時の担任は、赤ら顔の男の先生だった。確かお名前が高橋先生だったと思うが、素朴な感じの先生だった。
(注、最近昔の通信簿を気仙沼から家内が持ってきた。母が小学校時代からの通信簿を保管していたのだが、私は知らなかった。この通信簿で担任の先生の名前がはっきりした。小学校四年生の時の担任の先生のお名前は、「高橋恒二」先生だった。)
同級生には鈴木博君と松木洋子さんがいた。なぜこの二人が思い出深いかと言うと、この四年生の終わりに他校へ転校してしまったからだ。多分お二人とも転勤族のお父さんのご子息なので、短い期間しか気仙沼に滞在しなかったと思うが、二人とも垢抜けた服装でまた、成績も抜群に良かった。

当時は成績順に席が決まっていたので、誰が良い成績なのかすぐにわかった。私もこの四年生の時から勉強するようになった。一度松木さんと同じ机に座ったことがあるが、きれいな女子の横で勉強できることは、鼻たれ小僧の私としては夢心地の気分だった。その後、なぜか鈴木博君とこの席を成績で争うようになった。鈴木博君は大柄で大変明るい生徒だった。転校して去った同級生は9年間で何人かいたが、この二人は今でも忘れられない。

小学校五年生の時の担任は、熊谷勝先生だった。「コ」の字型の校舎の南西側が五年生の教室だった。この五年生の時にも嫌な思い出がある。参観日に教室で失禁をしてしまったのだ。五年生になっての失禁は恥ずかしいものだが、参観日の緊張で小用を休み時間にすることを忘れ、授業時間中にどうにも我慢できなくなった。手をあげて素直に便所に行けばよいのだが、参観日で大勢の父兄が来ていることもあり、恥ずかしくてそれができなかった。

親がその時教室に来ていたかは忘れたが、しばらくは落ち込んで立ち直れなかった。寝小便は小学校の低学年まであったように記憶している。唐桑屋の便所は裏にあり、暗くて夜中に行くのは避けたかった。兄たちも同じような思いをしていたようだ。この五年生の時の思い出は、この失禁の記憶が鮮烈なもので、他の思い出が少ない。確か完全給食が始まったのは五年生の終わりからだったと思う。それ以前の給食は脱脂粉乳だけだったので、いつも弁当を持参していた。この五年生の途中からいわゆる本当の給食が始まった。

欠食児童はいなかったが、弁当の代わりに学校が出す給食を食べるのは私にとって画期的な出来事だった。私の弁当のおかずは常に魚が中心だったが、給食は肉もある。人が残す分までもらって食べた。学校以外ではこの学年から新聞配達のアルバイトを始めた。

廣野新聞店へ早朝に出かけて、店の奥さんからその日の新聞とチラシ広告を渡される。チラシ広告を折りたたみ、新聞に挟んで出来上がりだ。出発前に奥さんから点検を受けてから出発する。おもに大田、陣山方面を配達した。廣野新聞店は朝日新聞を取り扱っていたが、1軒だけ日刊スポーツを購読する家庭があった。日刊スポーツは一日前の版なので、古い新聞を購読する人を子ども心に珍しいと思った。また、一度だけ号外を配ったことがある。学校から帰ると廣野新聞店から連絡があり、号外を配るとのことだった。"ケネディ暗殺"の号外だった。アルバイト料は1500円ぐらいだった。このお金を何に使ったのかはよく覚えていない。Uコン飛行機はこのころから始めたのかもしれない。すぐ上の兄は手先が器用で、父とともに模型飛行機を作っていた。私もこの頃からはじめて、そのための資金だったのかもしれない。

学校よりもこの新聞配達の思い出が深い。休日には新聞配達の少年を集めて、高森山へハイキングがあった。このときはじめて缶入りのトマトジュースを飲んだ。冷たくなかったので、飲んだ瞬間まずいと思った。

小学校六年生の時の担任は、熊谷栄子先生だった。本校舎の職員室のある棟の二階に六年生の教室があった。六年二組は二階の端から二番目の教室になる。このころの作文を読むとプラモデルに夢中になっていたことが分かる。確か沢田の入り口付近に模型屋さんがあったように記憶している。当時のプラモデルは戦闘機や戦車、軍艦が中心で、私は戦艦大和を組み立てた記憶がある。このプラモデルにラッカーで色を塗るのだが、ラッカーを溶かすシンナーを途中から子供には売らなくなった。大人でも判子がないと売ってくれない。唐桑屋の二階でプラモデルに色を付けるのだが、確かにシンナーの臭いは強烈だった。

それから昭和39年は東京オリンピックの年だ。教室にテレビが置かれて、授業中にオリンピックが見られるなんて、なんて贅沢なのだと思った。六年生の時には、成績順を教室の壁に張った。だから誰が良い成績なのかすぐに分かった。自分がどの位の成績だったのかはあまり覚えていない。今なら父兄が怒鳴り込んでくるようなやり方だったが、誰でも誰が良い頭脳を持っているかすぐに分かった。

気仙沼中学校

スキャン0017 昭和40年に気仙沼中学校に入学した。気仙沼中学校は気仙沼小学校のすぐ隣の学校なので、違和感なく進学できた。

中学一年生の時の担任の先生は、美術の西村先生だった。小学校と中学校の大きな違いは、やはり、教科毎に先生が異なることだろう。英語の先生はうら若き、笠松先生だった。数学は藤野先生、国語は鴻巣先生だった。 藤野先生はのちに家内を通じて親戚になった。

一年の思い出は何といっても教室に悪が一人いたことだ。この齊藤君は、授業中は騒ぐは、弱い者いじめはするは、先生にたてつくは、相当の悪だった。私はこのような人間が気仙沼小学校にいたこと自体知らなかったので、一年生で同級になり、相当に驚いてしまった。

まずは、同級生でおどけた男の子が居ると、みんなの前で顔を殴る。それも執拗に殴るのだ。弱そうな先生だと、授業中に騒いで先生を困らせた。私も相当にいじめられた。ただし、私の場合には兄弟げんかを激しくやっていたので、耐久性があった。決して彼に侮られることはなかった。

当時の学級委員は生徒の互選で選ばれるが、私はどういう訳か選ばれてしまった。職務に忠実な私は学級委員としての義務を果たそうとする。

ホームルームでソフトボールをするところを私は先生に話し、中止してもらい、生徒会の取り決め事項を優先した。これを齋藤君は気にくわない。相当に抵抗していたが、私の方が押し通した。理は私にあったので、私に従わざるを得ない。このことを彼は相当に恨んだようだ。まさに逆恨みなのだが、しょうがない。

クラブ活動は、小学校からやっていた剣道部に入った。兄が剣道部の三年生だったので同じクラブに所属したこととなる。私は生まれつきの運動音痴("運痴"と言うらしい)で、徒競走はいつもビリだったが、剣道は何とかやることができた。 中学三年生の時は、剣道で県大会まで出場した。体育の時間は本当に苦手だった。特に鉄棒がだめだった。中学校時代に蹴上がりを練習するのだが、いくら蹴っても鉄棒の上にたどり着くことができない。アカザル先生に思いっきり叱られたが、運動音痴は簡単には直せない。

気仙沼中学校では、気仙沼小学校以外の地区の小学校からも進学してくる生徒が居た。クラスは一組から十一組までの11クラス有った。当時の気仙沼中学校は県下一のマンモス学校だった。朝礼も全校生徒が並ぶと相当な人数になる。

二年生に進級し、担任は中村宗哲先生になった。不思議な縁で、この宗哲先生と奥様のイサコ先生は、仙台の私の住まいの隣に住まわれている。お隣に私の恩師が住む贅沢を感謝している。イサコ先生は義理の姉の小学校時代の担任の先生だそうだ。家内も志賀先生のお茶の教室で、イサコ先生とご一緒させて頂いた。

二年に進級し、すぐに私は風邪をこじらせて肺炎になり、大友病院に入院した。はじめは単なる風邪と思っていたが、一向に熱が下がらない。両親があわてて大友先生を呼んだところ、すぐに入院が必要だとのことだった。

三日町にある大友病院には、二週間ぐらい入院した。入院して三日目ぐらいには良くなるのだが、先生はなかなか退院させてくれない。私は入院していても暇なもので、退屈しきっていた。朝、齋藤英雄君とリンゴ(ごめん本名を忘れた。)の二人が病室の窓から顔を出して、見舞ってくれた。母に本の差し入れを頼んだりして、健康な入院生活を過ごしていたが、ようやく退院が許されて三日町から南町の唐桑屋まで歩いて帰った。このとき、久しぶりに歩いたので、地面がふわふわしているような感触だった。

この二年生の時の恥ずかしい思い出は、はじめて壇上に立って演説したときだった。体育館で全校生徒の前で選挙管理委員として演説するのだったが、すっかりあがってしまって自分が何をしゃべったのかも覚えていない。当時の私は坊主頭で頭のてっぺんが昔の事故のせいで尖がっている。その外見からつけられたあだ名が、「たこ」だった。気仙沼弁の「たこ」なので、どちらかと言うと「ダゴ」に近い。演説の途中で「ダゴ」と言われて、すっかり舞い上がった。二度と壇上でしゃべりたくない。

中学二年の時にアルバイトで牛乳配達をはじめた。雪印牛乳だったが、ちょうど化粧坂の「いろり」の付近にお店があったと思う。自転車の荷台に牛乳箱を乗せて、八日町、南町から齋藤外科の裏まで結構広範囲に配達する。牛乳配達は小学校時代の新聞配達よりも割りがよいと思った。新聞と異なり時間に制約されることはない。それでも牛乳が来るのを毎日、家の窓を開けて待っているおばあちゃんがいるので、大体同じ時間に配達した。確か土曜日は日曜日の分を含めて2倍の量を配達したと思う。このときは結構重いのだが何とかしのいだ。あるとき、同じように牛乳配達していた他の生徒が、自転車を倒して牛乳瓶を多数割ってしまったのを目撃した。近くの大人が助けていたが、かわいそうなことだった。

このアルバイトの報酬をためて、当時、最新鋭だったラジコンのプロポーショナル送受信機を買った。三共の2チャンネルだったと思うが、サーボモータも付属していた。プロポーショナル制御方式はまだアナログでレバーの角度に応じてサーボモータが動くのだが、ぶるぶる震えて安定しない。ラジコン飛行機に積んで、兄に操縦してもらった。兄は運動神経がよくて、私よりは相当上手だった。

三年生に進級すると担任の先生は赴任して間もない畠山専市先生だった。朝礼で転任の先生が紹介されたが、まさか専市先生が担任になるとは思わなかった。担任の発表後、我々のクラスの前に専市先生が立った時、いったいどのような先生なのかと半分期待した。教室に入りはじめて専市先生のお話を聞いた時、若くて正義感溢れるよい先生だと思った。

気仙沼中学には悪しき伝統があり、年明けの1月から卒業までの期間、卒業する先輩が目立ったり生意気な下級生や同級生を裏山に呼び出して殴るけるの悪さをした。私や兄たちはそのような被害を受けたことはないが、あるクラブのキャプテンだった同級生はその被害にあい、すっかり人格が変わってしまった。彼はスポーツも万能でハンサムな男だったが呼び出しを受け被害にあった。彼らは何とも罪なことをするものだ。最もいじめる側も高校に進学しない生徒が中心だったので、やけっぱちな気持ちや劣等感が精神を荒廃させたのだと思う。

三年生の終わりの時にこんな事件があった。休み時間に他のクラスの生徒が我がクラスに乱入し、騒ぎ出したのだ。その子は小学生の時に同級になったこともあり、仲が悪かったわけではないが、中学に入ってから悪者グループの一員になっていたようだ。私が注意すると私のほほを思いっきり叩いた。これには私も頭に来たが、反撃する前に彼は教室を出て行った。

放課後、学級委員だった私は先生の承認を得て緊急のクラス会を開き、このような無作法を防止する方策について皆で話し合うことにした。その話し合いの中で生徒の一人が、「S君に頼んで暴れた子がこの教室に入ってこないように話をつけてもらおう」と提案した。これに私は唖然とした。S君は体も大きく相撲部で一目置かれた存在だったが、彼の威力を借りて他クラスの生徒の乱入を阻止しようというものだ。世の正義はそのようなやり方で保たれて良いものだろうかと、私は思案してしまった。結局は彼の提案が通った。大人の世界であれば、やくざの乱入を、より力の強い親方に阻止してもらうように頼むものだ。

後日談だが、42歳の厄払いで同級会が気仙沼で行われた。観音寺でお祓いを受けたとき、前に座っていたK君が話しかけてきた。中学校時代にK君が他の生徒にいじめられていたとき、私が彼を助けてあげたことを感謝するものだった。しかし、私にはその記憶が全くない。人違いではないかと訊ねたか、間違いなく私が助けたのだそうだ。何となく私は嬉しくなった。若い時は義侠心が結構あったのだなと。

高校への進学については、迷った。兄二人は気仙沼高校に進学している。私も当然、気仙沼高校だと思っていたが、母の実家のある一関に開校して間もない一関高専があった。一度、その校舎を父と一緒に見に行ったことがあり、いろいろな実験器具や機械を触れこちらの学校にあこがれてしまった。

結局、高専と気仙沼高校の両方に願書を出した。高専の試験が早かったので、試験の合否が分かった後で気仙沼高校の受験ができる。高専の試験問題で数学はほぼ完ぺきに解答できたと思っていたので、競争率は5倍だったが多分合格すると思っていた。発表の日、教室で専市先生から合格の知らせを受けたとき、半分喜び、半分悲しみの複雑な心境だった。

これで気仙沼高校への進学はなくなったのだ。慣れ親しんだ両親のいる気仙沼から母の実家のある一関に移ることに、大いなる不安があった。また、心の底に気仙沼高校への未練があった。気仙沼育ちの私は当然、地元の気仙沼高校を意識していたのだ。

中学校時代は書く題材に溢れている。また別のテーマで書き込みたい。

英友会

小野先生が起こされた「英友会」は、気仙沼の大田にあった英語塾だった。私は小学校五年、六年、中学一年の三年間、大変お世話になった。多分現在は無くなっていると思う。

当時の気仙沼で学習塾と言えば、この「英友会」と「観音寺」の二か所だけだった。

週2回の塾通いは、私にとって苦痛だった。小学校時代は、算数、国語を教えていただいたと記憶している。多分、午後5時くらいから始まり、午後6:30位には終わったと思う。ただし、塾生の入れ替わりがあったので、学年ごとに異なる時間帯で勉強していた。

学習が終わると暗い山道を集団でそれぞれの家庭へ帰る。大田は当時、気仙沼の夜の繁華街で、船員が酔っ払って唄を歌いながら歩くのに遭遇することがあった。また、旧市場前には屋台が並び、その前を子供達が帰る危険な場所でもあった。しかし、特に事故や悪さがあったと聞かないので、親の引率がなくても問題ない時代だった。

塾通いは、兄たちの影響である。別に私が希望したわけではないが、五年生になってから行かされた。魚屋の息子なのだから不要な気もするが、親や祖母たちは教育に熱心だった。

英友会は12畳位の広さの部屋に塾生が20名ぐらい座り、先生が独自に作成したテキストに従って勉強する。

このテキストがガリ版刷りなのだが、複数の色を使った多色刷りが珍しく、またインクの臭いも独特のものだった。学校のガリ版刷りは黒しかなかったので、本当に珍しかった。小野先生は色ごとに原紙を切り、インクを分けて多重刷りしていた。

英友会での試験は面白い形式で行った。相撲に見立てて、それぞれの塾生が自分の名前の一字を取り、四股名を決める。毎日それぞれの取り込みがあり、試験の結果で優劣を決める。1対1の点数による勝敗だが、千秋楽までこの試験が続く。優勝すると横綱になり賞品をもらえる。その他に通算での最高得点でも商品がもらえた。個々の塾生を競わせる独特のアイデアだが、その日の最後に発表される取組結果に、みなドキドキしたものだ。小野先生が、「東~、○○山、西~、××川、90点対85点で○○山の勝ち」とやるのだ。

その他、塾のレクレーションで大島へいって、「飯ごう炊飯」をしたことが忘れられない。ご飯とカレーを作るのだが、5人ぐらいでチームを作ってカレーライスの味を競う。我々のチームは飯ごうに入れる水の量が少なくて、硬い半炊きのご飯になってしまった。このご飯にカレーをかけて無理やり食べたのだが、途中でこのご飯を放棄し、他のチームから通常のご飯を分けてもらい、ようやくまともな食事になった。男子と女子に分けてチームを作ったのが間違いだった。

塾ではクリスマスにはプレゼント交換会を行った。一人100円ぐらいの予算でそれぞれがプレゼントを購入し、一か所に集め、くじを引いて当たりを決める。誰が購入したものが当たるか分からないので、結構楽しみだった。

かくし芸大会もあった。ある塾生の女子が、北島三郎の「はるばる来たぜ!函館~~」と歌い出した。女子ならもっと女の子らしい歌を歌うのかと思っていたので、意表を突き驚かされた。私は縦笛をふいたように覚えている。

いま私の子供達には学習塾へ行かせていない。今の子供達は習い事が多すぎて、学習塾に行かせるのはかわいそうな気がしている。最も中学三年生になった娘は、ある大手学習塾が主催する2,000円が参加料の夏期講習に参加している。私の教えた英語や数学が間違っていたと怒られる。そろそろ私が教える限界かもしれない。

一関暮らし

一関高専には昭和43年4月に入学した。一関高専は、一関市の郊外、萩荘高梨に位置している。

母の実家は萩荘中大桑だったので、学生寮ではなく母の実家から学校へ通った。学校まで自転車で約30分かかったが、当時は通学路が砂利道だったので、すぐに痔を悪くしてしまった。これから永い痔との付き合いが始まった。

夏の通学は自転車でよいが、冬になると自転車での通学は困難になり、バス通学に切り替えた。萩荘の冬は厳しい。凍った山道で自転車は簡単にスリップしてしまい、危険極まりない。しかし、高梨からのバスの最終が午後6時位だったので学校からの帰り時間に苦労した。あまり遅い時は歩いて冬道を母の実家まで帰しかなかった。約1時間掛けて母の実家へ戻った。冬の夜空の星を見て、歌を歌いながら帰った。

高専の二年生の夏に仙台にて自動二輪の運転免許を取った。すぐに同級生の長谷川君から本田CS90を1万円で購入した。これから自転車ではなくバイクで通学するようになったが、それでも冬はバスに頼るしかなかった。

母の実家は農家だが、夏休みや冬休みには長期間泊まり込みで来ていたので、特に違和感はなかった。母屋に隣接する乾燥小屋を私の部屋にしてもらった。この乾燥小屋は煙草の葉や桑の葉を乾燥させるための部屋だったが、以前に住居として貸したことがあったので私が住む分には問題はなかった。ただし、道路の脇だったので隙間から埃が大量に侵入してくることにはまいった。

一関で暮らしはじめて、初めて気づいたことが多々あった。それは以前には感じなかった気仙沼と一関の文化の違いだった。まず言葉が違う。一関人は、語尾に"しょ"をつける。気仙沼人は、語尾に"ちゃ"をつける。一関と気仙沼の間は50Kmしか離れていないのに、言葉にはかなり戸惑った。

朝食、夕食は叔父、叔母、祖母、年下の男女の従兄と一緒に食べた。まず、最初に食事で気づいたことは、味噌汁に味がなかったことだ。以前泊まりに来た時には全く気付かなかったのだが、長期に一緒に食事をするにつれて、味噌汁の味の違いがわかった。

当時の一関の農家では、魚は貴重品だった。まして味噌汁のだしとして煮干しを全く使っていない。したがって、味噌汁を飲んでも味がしなかった。これには参った。気仙沼の実家に電話し、急いで煮干しを届けてもらった。電話にも戸惑った。この辺の農家の電話は農業集団加入電話(農集電話)といって、10軒で1本の電話線を共同で利用する方式だ。同一のグループ同士の通話は無料となるが、一関市内へ掛ける時は、この1本の電話線を共同利用するので、他の家が利用していると使えない。また、市外通話は104を通じて掛けるしかなかった。

魚の代わりに、野菜は本当においしかった。また、きのこ類、特に湧き水の近くで取れるアミ茸は絶品だった。アミ茸と大根おろしを醤油を掛けて食べる。世の中にこんなにおいしい茸があるのかと思った。また、トマトやトウモロコシもたらふく食べた。トマトは歪で形が不ぞろいだったが、どれも味が濃くておいしかった。見た目ではなく本当のおいしさだ。

萩荘では5年間お世話になったが、途中、半年くらい、気仙沼から大船渡線で通学したことがある。無性に列車に乗って通学したくなったのだ。気仙沼を朝5時半近くの始発で一関へ向かうのだが、結構の通学している学生が多いのに驚いた。2時間近くの通学も楽しいものだった。

萩荘では農家の手伝いもした。田植えについては、当時手植えが主流だったので半端者の私はやらせてもらえなかったが、それ以外のことはほとんどした。牛を飼っていたので、牛に飼料を与えるのも私の仕事だ。また、真夏に車を借りて田んぼに農薬を撒きに行ったことがある。肩掛け式の噴霧器で農薬を田んぼに掛ける。四輪車の運転免許は持っていなかったが、トヨタパブリカは運転できた。パブリカはおもちゃみたいな車で構造も簡単で、運転の方法もすぐに覚えた。農家と田んぼの間を走るだけだったので、危険は無かった。

高専の二年生のときに叔母の出産で病院まで付き添ったことがある。従兄弟の真君が生まれるときのことだ。叔母が急に産気づいた。叔父は温泉に行っていて車を運転できるものが誰も居ない。まさか無免許で一関市内まで車を走らせることもできず、タクシーで産科病院へ行くことになった。最初は救急車を呼ぼうかとも思ったが、周りの農家に気が引けたのでタクシーで行くことになり、私が付き添うことになった。

まだ16歳の少年が妊婦の叔母と一緒に病院に行ったので、看護婦も驚いたことだろう。私はそのとき特に恥ずかしいとは思わなかったが、今の年齢で考えるとよくやったと思う。次の日には叔父も帰ってきたので無事、真君は生まれてきた。

高専生活

私が一関高専に入学した年度に、はじめて一年生から五年生まで全学年がそろった。開校間もない学校だったので、私たちの学年が第5期生になった。

学校の気風は創立5年目ということもあって、これから歴史を創るという意気込みが感じられた。当時の高専には、気仙沼から他に1名が入学したが、私は電気科、彼は機械科だった。電気科は1クラスだけで40名の少人数だった。また、出身中学はそれぞれ違っていた。一関は岩手県の県南に位置していたので、岩手県内から万遍無く、また宮城県の県北からも集まっていた。

学校には学生寮があったが、全寮制ではなく、自宅通学や下宿住まいも結構いた。入学当初、知り合いがいないのでなかなかうち解けなかったが、そのうち近くの同級生と話をするようになった。学費は月800円で半年ごとに4800円をまとめて支払うシステムだった。国立の学校だったこともあり、工学系の学校としては異例に学費が低かったと思う。

この頃、クラブ活動は中学から続けていたこともあり、剣道部に所属した。ただし、剣道部は二年生の夏の大会の後に辞めてしまった。高専の剣道部は中学時代の剣道部とは異質で、楽しかったという思い出がない。ただ練習に明け暮れ、特に一関市内からフォルクスワーゲンに乗ってくるコーチは、無口でただ剣道だけが強かった。剣道のコートとはこんなものかとも思ったが、どうしても中学時代のコーチと比べてしまう。中学時代の剣道のコーチは、商店の店主が中心で、普段からの知り合いが多かった。しかし、高専の剣道のコーチは、ただ練習に明け暮れるタイプの人だった。

夏の大会後、顎を悪くしたこともあり辞めてしまった。辞めるとコーチに告げたとき、ただそうかと言っていたのが空しい。高専時代、剣道の練習で他の人ほど持久力がないことに気づいた。このことを長年疑問に思っていたが、社会人になり、あるとき健康診断で心臓の不整脈を指摘されたことがある。これで、剣道の練習中に心臓がバクバクする原因がわかったような気がした。元々無理ができない体だったということだ。むしろ、早めに剣道を辞めてよかったと思っている。

それから前から興味を持っていたアマチュア無線クラブに所属した。こちらの方が、技術的な興味、無線という未知の世界に踏み込んだことで、自分の性にあっていたようである。

高専祭という学園祭が10月にあった。一年生の時の高専祭は、創立五周年ということで盛大に行われた。一関市内も仮装行列でパレードし、学内での行事も目白押しだった。高専祭は、学生会が主催の自主的な行事だった。その頃、東京では学園紛争が華やかな時で、一関の町にも左翼、新左翼の政治的なグループが入り込み始めていた。

毎年、学校内は共産党系、べ平連系などが学生会の主導権を握る争いをしていた。ある時はべ平連系の学生会、翌年は共産党系の学生会が占拠していた。高専祭では中央から有名人を呼んで後援会を開くが、小田実氏を学生会が呼ぼうとして学校から阻止され、学生会が解散した事件があった。新しい学生会は、ムノタケジ氏を呼んで後援会を開いた。ムノタケジ氏は秋田の有名人で、秋田弁で訥々とお話しされたことが印象に残っている。ただし、お話の内容は忘れてしまった。(失礼)

下宿先の母の実家から一関市内まで自転車で1時間ぐらいかかる。たまに町中の同級生の下宿先を訪ねたりしたが、いろいろな商店が周りにあって羨ましいと思った。母の実家は、周りが農家だけでバスの停留所に何でも売っている雑貨屋さんがあった。ここで大概のものは購入できるので、夜中に食べたくなるインスタントラーメンなどを購入した。

あるとき同級生が下宿先に泊まりにきた。入学して間もない頃だったが、彼は同級生の下宿先を全部周ったという猛者だった。叔父叔母には大変気を使ってもらい、田舎なりの歓迎をしてくれた。彼は残念ながら二年生から三年生への進級ができず、落第してしまった。しかし、最後には何年か遅れで卒業したと思う。

高専の授業は、詰め込み主義の授業だった。短期間に基礎課程を終えて、工学の専門課程へ進むためだ。また、化学、工学などの実験も多く、その結果をまとめレポートにして提出することに苦労した。寮生は、先輩から前年のレポートを譲り受け、それをベースにレポートを書きあげる要領の良い奴もいた。

試験は60点以下で赤点になり、再試験を受けなければならない。進級も厳しく、特に二年から三年へ進級するときに落第する学生が多かった。私が二年生に進級したとき、先輩が2名、落第して同級になった。その後、お二人とも卒業まで一緒のクラスだった。同級生で落第した一人と試験期間中にたまたま図書館であったことがある。私が三年生、彼が二年生の時だった。彼は図書館の事務員にしきりに試験開始時間を聞いている。なぜ、そんなことを事務員に尋ねるのかと不思議に思ったが、彼はその後、退学してしまった。

一関市には南光病院と言う精神科専門の病院がある。親戚の看護師の話では、入院する若者の中で、高専の学生が一番多いことを聞き驚かされた。田舎の中学で一番だった少年が、高専に入り、試験の苦しみをはじめて知って精神的に犯されることもあったのだろう。私自身は、何とか乗り越えてきたが、弱気になった場合にはどうなったかは分からない。

四年から五年に進級する春休みに、工場見学旅行があった。確か積み立てていたお金で旅行したと思うが、参加者は意外に少なかった。富士通、松下電子、パイオニアなど高専の先輩が就職した職場を訪ねて、先輩の話を聞くツアーだった。最後に修善寺で一泊して終わりだったが、私は最後の修善寺は切り上げて、そのまま親戚の家で厄介になった。

五年に進級すると卒業研究のテーマを決めなければならない。それぞれ興味があることをテーマに選ぶのだが、どちらかというと指導教官の人気度で決めていたように思う。私は無線通信系をやりたかったので、学究肌の比較的人気のない教官についた。夏休みも返上し、実験に明け暮れるが、思ったような結果が出ないときに教官の指導を仰ぐ。私は前年度の先輩が実施した実験を引き継ぐ形で、映像情報のFM変調による送受信特性に関してレポートをまとめた。卒業研究の発表会は、他のテーマの指導教官も加わり、質疑応答が行われる。

私の時には、ダイオードのスレッショルドレベルに関する質問があった。私は的確に答えたつもりだったが、後で指導教官に叱られた。後で聞くと、どうも指導教官同士の相性もいろいろあったようだ。高専の教官は国家公務員だが、どうしても学閥、東北大学を見ている。

高専生活は全般に、一関の田舎暮らしの中でののんびりしたものだった。たまに帰省する気仙沼が妙に新鮮でよかった。

就職活動

就職に関する担当教官との面談は、高専の四年生の終わりぐらいから始まった。教官から各企業を紹介する分厚い雑誌を渡され、眺めてみたが、どの企業にも特別な関心はなかった。

担当教官からは京都のオムロンと航空電子産業のとある会社を勧められた。一時期、京都に住むこともよいかなと思ったことがあるが、なかなか決定できなかった。そんな時、気仙沼の父より電話がきて、今旅館に宿泊しているお客さんが面白い会社の人たちなので、その会社のお話を聞きに、気仙沼へ戻って来いと言うことだった。

当時、実家は魚屋から旅館業へ完全に転換した時期だったので、旅館にはさまざまなお客さんが泊まるようになっていた。そのお客様は数名で長期間、滞在してくれる上得意だった。土曜日に帰省して、そのお客様の一人にお会いした。その方が、渋谷に本社がある通信コンサル会社の金子さんだった。

金子さんは食事中もいつも英語辞典は離さない人だったようで、この会社が海外で活躍している会社だと説明してもらった。当時の私は、海外に淡い憧れがあったので、その会社のことに俄然興味を持った。国内では電電公社の下請けで電気通信網の設計業務を行い、海外では途上国の通信網のコンサルティング業務を行うような会社と聞いた。当時の電電公社は海外での業務が法律で禁止されており、その電電公社に代わって海外の通信コンサルティングを行うために、創立された会社ということだった。

当時の会社の社長はNHKの経営委員もやっており、世間には知られていないが技術一色の点が気に入った。学校に戻り、担当教官に相談すると、その会社のことを調べてくれて、よい会社なので問題ないということだった。就職試験は、五年生になった連休前に東京へ上京し、渋谷の本社で受けた。試験を受けた人は、高専からは私一人だけだったようで、ほかは全国から集まった大学生だった。約20名で筆記試験及び翌日の面接を受けた。私は一関から上京したので、会社で渋谷の旅館を用意してもらった。三人一部屋だったが、北海道と山形から来た大学生と一緒の部屋だった。

筆記試験の問題は、すべて英語で書かれていた。簡単な計算問題だったが、英語で質問の意味を理解しながら解答を考えるので大変だった。面接試験は試験官が数名いて、質問を受けてそれに対して回答する。私がアマチュア無線を趣味としていたので、無線通信のアンテナに関していかに安定的に通信を確保するかの問題だった。私はダイバーシティ方式に関して回答したと思う。

この試験期間中に、気仙沼へ出張されていた会社員の方にもお目にかかって、大変心強く思った。試験結果は間もなく学校に伝えられ、無事、合格した。同級生もほとんどが五月の連休前には就職先が決まっていたようだ。

その後、会社からは卒業まで社内報が定期的に届けられ、大体の会社の様子を伺うことができた。ただし、私の親戚には公務員や農家、商売人が多く、サラリーマンがいなかったので、サラリーマンになることに漠然とした不安があった。給料を貰う生活とはどういうものなのか、知りようもなかった。

高専は昭和48年3月13日に卒業した。丁度、私の二十歳の誕生日が卒業の日だった。卒業式には父も出席してくれた。父は一関が生まれ故郷なので、知り合いも多く、高専に入った私を自慢するようになっていた。まずは、無事卒業して親孝行ができたと思った。

卒業後、実家の気仙沼に戻り、就職の準備をしていた。いよいよ東京へ上京する日には、近所の方も集まり、見送っていただいた。父の愛車スカイラインの後部座席に布団を乗せて、父の運転で気仙沼から親戚のいる逗子を目指した。午前11時ぐらいに気仙沼を出発し、45号線を仙台へ向かった。仙台は当時仙台バイパスの工事中で、このバイパスを南下し、東北自動車道のインターを目指した。当時の東北自動車道は全線が開通してはおらず、途中、何度か一般道に戻りながら、東京を目指した。

都内には夜の10時ぐらいに入った。首都高から横浜道へ入る道が分からず、都内をうろうろしながらようやく横浜道へ入り、親戚の逗子の家に着いたのは翌日の午前3時ぐらいだったと思う。父も一人でよく運転したものだ。父は元々エンジニアだったので車には明るく、軍隊時代も車の整備士をやっていた。

逗子に着いて休んだ後、翌日、今度は横浜にいる父のいとこの家を目指した。逗子の叔父は運転免許を持っていなかったので、横浜の上永谷に居住する父のいとこ(章さん)が横浜や川崎には詳しく、絶好の案内人だった。

当時、章さんはまだ勤め人で、後で独立して工場を始めるのだが、会社を休んで迎えに来てくれた。しばらく章さんの家を拠点に、父の親戚めぐりの付き合いをしてもらった。父の親戚は初めて会う人ばかりで、また、父の昔の職場(鉄工所)の先輩が経営する川口の段ボール製造機械を作るお宅にも伺った。はじめて息子を東京へ出すので、父の親戚や知り合いを紹介したかったようだ。

私が就職する会社には複数の独身寮があった。会社からは川崎の新丸子にある独身寮が指定されていた。多摩川沿いにある独身寮だが、ここへも章さんの運転で何とかたどり着き、これから寮での生活が始まった。

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 年表

出来事フィルタヒット曲フィルタ私事フィルタ
1953年
和暦 昭和28年
出来事
テレビの本放送開始
ヒット曲
君の名は(織井茂子)
私事
父「永一」、母「千草」の三男として誕生
 
1954年
和暦 昭和29年
出来事

3月1日 ビキニ環礁で水爆実験
第五福竜丸の乗組員が被曝

ヒット曲
お富さん(春日八郎)
私事

1955年
和暦 昭和30年
出来事

自由党と民主党が合併し自由民主党が成立
右派と左派が合併した日本社会党が設立(55年体制)
神武景気

ヒット曲
この世の花(島倉千代子)
私事
 
1956年
和暦 昭和31年
出来事

日ソ共同宣言
12月18日 国際連合加盟

 

ヒット曲
東京の人(三浦洸一)
私事

1957年
和暦 昭和32年
出来事
なべ底不況
ヒット曲
チャンチキおけさ(三波春夫)
私事
カトリック幼稚園入園(ようやく落ち着く)
 
1958年
和暦 昭和33年
出来事
岩戸景気
ヒット曲
月光仮面は誰でしょう(近藤圭子)
私事
海に落ちて何度か溺れる

1959年
和暦 昭和34年
出来事
皇太子明仁(のちの今上天皇)が正田美智子と結婚
ヒット曲
黒い花びら(水原弘)
私事

気仙沼小学校入学
大森和江先生に教わる

 
1960年
和暦 昭和35年
出来事

2月23日 徳仁親王(のちの皇太子)誕生
6月19日 日米安全保障条約改
国民所得倍増計画

ヒット曲
誰よりも君を愛す(松尾和子、和田弘とマヒナスターズ )
私事
清水その先生に教わる

1961年
和暦 昭和36年
出来事

農業基本法制定
ソ連有人宇宙衛星

ヒット曲
君恋し(フランク永井)
私事
掃除中に教室のガラスを割って怒られる
亀井先生
 
1962年
和暦 昭和37年
出来事
オリンピック景気
ヒット曲
いつでも夢を(橋幸夫、吉永小百合)
私事

1963年
和暦 昭和38年
出来事
国産初の30分テレビアニメである鉄腕アトム放映開始
ヒット曲
こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)
私事
気仙沼小学校で学校給食始まる
 
1964年
和暦 昭和39年
出来事

10月1日 東海道新幹線開通
10月10日~10月24日 東京オリンピック開催

ヒット曲
愛と死をみつめて(青山和子)
私事
小学校6年生
教室でテレビを見られることに感激

1965年
和暦 昭和40年
出来事
日韓基本条約を結ぶ
朝永振一郎ノーベル物理学賞受賞
ヒット曲
柔(美空ひばり)
私事

気仙沼中学校入学
西村先生(美術)に教わる

 
1966年
和暦 昭和41年
出来事
日本の総人口が1億人を突破
いざなぎ景気
敬老の日、体育の日
中国文化大革命
黒い霧
ヒット曲
霧氷(橋幸夫)
私事
中村宗哲先生に教わる

1967年
和暦 昭和42年
出来事
革新系/美濃部東京都知事誕生
ヒット曲
ブルー・シャトー(ジャッキー吉川とブルーコメッツ )
私事
畠山専市先生に教わる
 
1968年
和暦 昭和43年
出来事
12月10日 三億円事件
日本初の心臓手術
川端康成ノーベル文学賞受賞
ヒット曲
天使の誘惑(黛ジュン)
私事
一関工業高等専門学校入学

1969年
和暦 昭和44年
出来事
サザエさん放映開始
東大安田講堂へ機動隊突入
アポロ11号月面着陸
ヒット曲
いいじゃないの幸せならば(佐良直美)
私事
 
1970年
和暦 昭和45年
出来事
3月14日~9月13日日本万国博覧会開催
よど号ハイジャック事件
日本人工衛星「おおすみ」
ヒット曲
今日でお別れ(菅原洋一)
私事

1971年
和暦 昭和46年
出来事
環境庁設置
大久保清事件
ニクソン/ドルショック
ヒット曲
また逢う日まで(尾崎紀世彦)
私事
 
1972年
和暦 昭和47年
出来事
札幌オリンピック開催
2月19日あさま山荘事件
3月15日山陽新幹線・新大阪~岡山間開通
5月15日沖縄返還
9月29日 日中共同声明
グアム島から横井庄一さん帰国
ヒット曲
喝采(ちあきなおみ)
私事

1973年
和暦 昭和48年
出来事
第一次オイルショック
ベトナム平和協定調印
江崎玲於奈ノーベル物理学賞受賞
巨人軍V9達成
ヒット曲
夜空(五木ひろし)
私事
会社員となる
川崎の新丸子にある独身寮で生活
 
1974年
和暦 昭和49年
出来事
ルバング島から小野田さん帰国
モナリザ日本初公開
ヒット曲
襟裳岬(森進一)
私事
地方出張に明け暮れる

1975年
和暦 昭和50年
出来事
3月10日山陽新幹線・岡山~博多間開通
ベトナム戦争終結
エリザベス女王来日
沖縄海洋博覧会
ヒット曲
シクラメンのかほり(布施明)
私事
 
1976年
和暦 昭和51年
出来事
ロッキード事件
中国天安門事件
ヒット曲
北の宿から(都はるみ)
私事
テヘランへ2年間駐在(羽田空港よりイランへ出発)
アパダナで共同生活

1977年
和暦 昭和52年
出来事
社会党飛鳥田委員長選出
王貞治ホームラン世界記録(756本)
ヒット曲
勝手にしやがれ(沢田研二)
私事
休暇を利用しテヘランからヨーロッパ旅行
 
1978年
和暦 昭和53年
出来事
日中平和友好条約
成田空港開港
ヒット曲
UFO(ピンク・レディー)
私事
8月にテヘランより帰国(成田空港)
帰国途中にタイ、香港へ寄る

1979年
和暦 昭和54年
出来事
第二次オイルショック
ドラえもん放映開始
東名日本坂トンネル事故
国公立大学共通一次試験
ホメイニのイラン革命
ヒット曲
魅せられて(ジュディ・オング)
私事
日米英会話学園にて英会話の研修(3か月間)
JICA専門家にてインドネシア出張
 
1980年
和暦 昭和55年
出来事
イエスの方舟
ソ連アフガニスタン侵攻
ヒット曲
雨の慕情(八代亜紀)
私事

1981年
和暦 昭和56年
出来事
神戸ポートピア81
福井謙一ノーベル化学賞受賞
ヒット曲
ルビーの指環(寺尾聡)
私事
 
1982年
和暦 昭和57年
出来事
東北新幹線・上越新幹線開通
日航機逆噴射
ヒット曲
北酒場(細川たかし)
私事

1983年
和暦 昭和58年
出来事
東京ディズニーランド開園
日本海中部地震発生
ソ連機が大韓航空機を爆破
戸塚ヨットスクール事件
ヒット曲
矢切の渡し(細川たかし)
私事
 
1984年
和暦 昭和59年
出来事
グリコ森永事件
新札発行
ヒット曲
長良川艶歌(五木ひろし)
私事

1985年
和暦 昭和60年
出来事
日本電信電話公社・日本専売公社が民営化
日本電信電話(NTT)・日本たばこ産業(JT)の発足
日本航空123便墜落事故
プラザ合意
つくば科学博
阪神タイガース優勝
ヒット曲
ミ・アモーレ(中森明菜)
私事
コロンボ(スリランカ)へ出張
コロンボ市内中継網の設計
 
1986年
和暦 昭和61年
出来事
ダイアナ妃来日フィーバー
ヒット曲
DESIRE(中森明菜)
私事

1987年
和暦 昭和62年
出来事
この年からバブル景気(平成景気)が始まる
国鉄が分割民営化、JRグループの発足
ルーブル合意
利根川進ノーベル生理学賞受賞
ニューヨークブラックマンデー
ヒット曲
愚か者(近藤真彦)
私事
 
1988年
和暦 昭和63年
出来事
リクルート事件
青函トンネル開通
東京ドーム完成
ヒット曲
パラダイス銀河(光GENJI)
私事

1989年
和暦 昭和64年
出来事
昭和天皇崩御(逝去)
平成に改元
激動の昭和が幕を閉じる
ヒット曲
淋しい熱帯魚(Wink)
私事
 
1989年
和暦 平成元年
出来事
消費税導入
美空ひばり死去
宇野内閣が発足するが、スキャンダルなどもありわずか2ヶ月でスピード退陣、第1次海部内閣発足
坂本堤弁護士一家殺害事件
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
東証の日経平均株価が史上最高値を記録し下落に転じる
ベルリンの壁崩壊
ヒット曲
私事

1990年
和暦 平成2年
出来事
即位の礼
第2次海部内閣発足、その後新たに第2次海部内閣改造内閣も発足
礼宮文仁親王(現:秋篠宮)と川嶋紀子が結婚
日本人初の宇宙飛行士秋山豊寛が宇宙へ
イラク軍 クウエート侵攻
統一ドイツ誕生
ヒット曲
恋唄綴り(堀内孝雄)
おどるポンポコリン(B.B.クィーンズ)
私事
2月父逝去(享年70歳)、ブラジルにて訃報を受け取る
6月結婚
 
1991年
和暦 平成3年
出来事
雲仙普賢岳が大噴火
湾岸戦争勃発
第58代横綱千代の富士が引退
東北・上越新幹線東京駅乗り入れ開始
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が国際連合加盟
宮澤内閣発足
ソビエト連邦解体
バブル経済崩壊
湾岸戦争勃発
ヒット曲
北の大地(北島三郎)
愛は勝つ(KAN)
私事

1992年
和暦 平成4年
出来事
バルセロナオリンピック・アルベールビルオリンピック開催
尾崎豊死去
毛利衛が宇宙へ
天皇が初めて中華人民共和国を訪問
米大統領にビル・クリントンが当選
宮澤内閣改造内閣発足
東京佐川急便事件
ヒット曲
白い海峡(大月みやこ)
君がいるだけで(米米CLUB)
私事
長女誕生
 
1993年
和暦 平成5年
出来事
皇太子徳仁親王と小和田雅子が結婚
レインボーブリッジが開通
細川内閣発足により、自由民主党が野党に
歴史的冷夏
1993年米騒動によりコメの部分開放を決定
ドーハの悲劇でサッカー日本代表はW杯初出場を逃す
逸見政孝死去
Jリーグ開幕
ヒット曲
無言坂(香西かおり)
私事
 

1994年
和暦 平成6年
出来事
リレハンメルオリンピック開催
羽田内閣が発足するが、わずか2ヶ月でスピード退陣、村山内閣発足
アジア初の女性宇宙飛行士向井千秋が宇宙へ
大江健三郎がノーベル文学賞受賞
松本サリン事件
関西国際空港開港
プレイステーションが発売
三陸はるか沖地震
ヒット曲
innocent world(Mr.Children)
私事
長男誕生
 
1995年
和暦 平成7年
出来事
阪神・淡路大震災
地下鉄サリン事件が発生
オウム真理教の松本智津夫代表逮捕
村山内閣改造内閣発足
ウィンドウズ95発売
野茂英雄投手がメジャーリーグ新人王に
仏大統領にジャック・シラクが当選
ヒット曲
Overnight Sensation(trf)
私事

1996年
和暦 平成8年
出来事
第1次橋本内閣発足
アトランタオリンピック開催
ペルー日本大使館人質事件が発生
渥美清死去
ゲーム『ポケットモンスター』が発売
北海道の豊浜トンネルが落盤事故
第2次橋本内閣発足
英、狂牛病騒動
O-157
ヒット曲
Don't wanna cry(安室奈美恵)
私事
 
1997年
和暦 平成9年
出来事
神戸連続児童殺傷事件
ナホトカ号重油流出事故
香港が中国に返還
長野新幹線開業
映画『もののけ姫』が公開
ダイアナ元英皇太子妃事故死
第2次橋本内閣改造内閣発足
サッカー日本代表がW杯初出場を決める
ポケモンショック
ヒット曲
CAN YOU CELEBRATE?(安室奈美恵)
私事

1998年
和暦 平成10年
出来事
山一證券が自主廃業
和歌山毒物カレー事件
小渕内閣発足
長野オリンピック開催
サッカーワールドカップに日本が初出場
横浜ベイスターズが38年振りに日本一
北朝鮮がテポドン1号発射実験
ヒット曲
wanna Be A Dreammaker(globe)
私事
 
1999年
和暦 平成11年
出来事
天皇即位10周年奉祝式典が各地で開催される
小渕内閣第1次改造内閣発足、約10ヶ月後、小渕内閣第2次改造内閣発足
全日空61便ハイジャック事件発生
国旗国歌法成立
ポルトガル、マカオを中国に返還
2000年問題が話題に
ヒット曲
『だんご3兄弟』が大ヒット。
私事

2000年
和暦 平成12年
出来事
九州・沖縄サミット開催
二千円札発行
第1次森内閣発足、3ヶ月後第2次森内閣発足
地下鉄日比谷線脱線事故
新潟少女監禁事件の被害者発見
韓国と北朝鮮の南北首脳会談が実現
三宅島が噴火し全島避難
加藤の乱
夏季シドニーオリンピックが開催
第2次森改造内閣 (中央省庁再編前)発足
ヒット曲
私事
 
2001年
和暦 平成13年
出来事
第2次森改造内閣 (中央省庁再編後)発足
えひめ丸事件
森内閣総辞職
「聖域なき構造改革」を唱え、第1次小泉内閣発足
附属池田小事件
アメリカ同時多発テロ事件が発生その後米英軍がアフガニスタンに報復攻撃
ヒット曲
私事

2002年
和暦 平成14年
出来事
ソルトレイクシティオリンピックが開催
EU圏内で新通貨ユーロに完全統合
住民基本台帳ネットワークが開始
第1次小泉内閣第1次改造内閣発足
東北新幹線が八戸駅までに延伸
アジアで初のサッカーワールドカップを韓国と日本が共催
ヒット曲
私事
 
2003年
和暦 平成15年
出来事
東海道新幹線の品川駅が開業
イラク戦争勃発
米軍がサッダーム・フセインイラク元大統領拘束
玄界灘海難事故発生
阪神タイガースが1985年以来18年ぶりにセ・リーグを制する
第1次小泉内閣第2次改造内閣発足、2ヶ月後第2次小泉内閣発足
感染症SARSが世界的に流行する
ヒット曲
私事

2004年
和暦 平成16年
出来事
九州新幹線が開業
営団地下鉄が東京地下鉄(東京メトロ)に
佐世保小六女児同級生殺害事件が発生
異常気象で、観測史上最多となる10個の台風が日本に上陸
『マツケンサンバ』が大ヒット
アテネオリンピック開催
第2次小泉改造内閣発足
新潟県中越地震発生
日本銀行券のデザインを20年ぶりに変更
『東北楽天ゴールデンイーグルス』がプロ野球パ・リーグに新規参入
ヒット曲
私事
 
2005年
和暦 平成17年
出来事
H-IIAロケット打ち上げ成功
福岡県西方沖地震が発生
JR福知山線脱線事故
2005年日本国際博覧会(愛・地球博、愛知万博)開幕
中部国際空港開港
郵政民営化法案が参議院本会議で否決されたが、小泉首相は衆議院解散を断行して総選挙後に成立、同時に第3次小泉内閣発足(約1ヶ月後、第3次小泉改造内閣発足)
本田美奈子死去
構造計算書偽造問題
ヒット曲
私事

2006年
和暦 平成18年
出来事
平成18年豪雪
ライブドアショック、堀江貴文逮捕
トリノオリンピック開催
ワールドベースボールクラシック開催、日本が初代優勝
ワールドカップ ドイツ大会開催
北朝鮮がミサイル7発の発射実験
ハンカチ王子が話題に
村上ファンド代表の村上世彰逮捕
秋篠宮妃紀子が悠仁親王出産
安倍内閣発足
北朝鮮が核実験
ヒット曲
私事
 
2007年
和暦 平成19年
出来事
日本全国で食品に関する不祥事が噴出
あるある大事典捏造問題
宮崎県知事に東国原英夫(そのまんま東)が当選
能登半島地震発生
防衛庁が防衛省に移行
長崎市長銃撃事件発生、伊藤一長市長が死亡
新潟県中越沖地震発生
『消えた年金問題』発覚
坂井泉水(ZARD)死去
松岡利勝農林水産大臣が自殺
参議院議員通常選挙で自由民主党大敗
安倍改造内閣発足もすぐに頓挫、福田康夫内閣発足
日本郵政公社が民営化し、日本郵政グループ(JPグループ)発足
11月としては異例の最深降雪記録を各地で記録する
ヒット曲
私事
8月に網膜剥離の手術で2週間、東北大学病院へ入院。

2008年
和暦 平成20年
出来事
イージス艦漁船と衝突
中国製毒入り餃子
特措法切れでガソリンの値段下がる
後期高齢者医療制度始まる
ミャンマーサイクロン
中国四川省大地震
秋葉原通り魔事件(6月)
岩手・宮城内陸部大地震(6月)
北京オリンピック(8月)
福田政権退陣(9月)
事故米が食用に流通(9月)
麻生政権誕生(9月)
世界同時株安(10月)
オバマ氏が米次期大統領に当選(11月)
ヒット曲
私事
鎌田ミネ死去(享年97歳)
千葉弘子死去(享年87歳)
 
2009年
和暦 平成21年
出来事
定額給付金法案成立(3月)
豚(新型)インフルエンザ発生(5月)
北朝鮮が2度目の核実験(5月)
総選挙で民主党圧勝(8月30日)
民主党鳩山内閣誕生(9月)
ヒット曲
私事
愛犬キャンディ死去(2/20)享年8歳
鈴木双葉死去(6/1)享年74歳

2010年
和暦 平成22年
出来事
正月(1日)大荒れの天気
社民党が連立政権より離脱(5月)
宮崎にて口蹄疫が蔓延(5月、6月)
民主党菅内閣誕生(6月)
民主党、参議院選挙で敗北(7月11日)
泉区の教師殺人事件の犯人が捕まる(8月8日)
ヒット曲
私事
折居博(3月3日)死去
 
2011年
和暦 平成23年
出来事
3月11日東北関東大震災
9月野田政権発足
ヒット曲
私事
折居四郎死去(享年89歳)2月21日
曽根規夫死去(享年63歳)3月11日(3月14日、自衛官によって発見)
曽根裕子死去(享年56歳)3月11日(4月8日、近畿から派遣された機動隊員によって発見)

 テヘランにて

 昭和30年代魚屋にて

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